古川元久さんは、国民民主党の国会対策委員長であり、党内の実力ある政治家の一人です。
玉木雄一郎代表が注目を浴びるなか、古川元久さんの手腕を問われる声があるのも事実です。
そこで今回は、古川元久さんの生い立ちから現在までの経歴を調査。
また、政治家を目指したきっかけなども調べました。
ぜひ、最後までお付き合いください。
古川元久のプロフィール
最初に、古川元久さんのプロフィールから見ていきましょう。
- 名前:古川元久
- 読み方:ふるかわ もとひさ
- 生年月日:1965年12月6日
- 年齢:58歳(2024年11月現在)
- 出身地:愛知県
- 選挙区:衆議院選挙区 愛知
- 党派:国民民主党
- 当選回数:衆議院10回
- 家族:妻、長男、長女
- 好きな言葉:夢高くして足は地にあり
- 好きな食べ物:納豆、餃子、コロッケ
- マイブーム:ハッピー(飼い犬)と戯れること
古川元久の生い立ちからキャリア初期
古川元彦さんの政治家を目指すきっかけや学歴について紹介します。
サラリーマン世帯に育ち、東大法学部へ
1965年、愛知県生まれの古川元久さん。
サラリーマン世帯で育ちます。
育ててくれた両親のことをこのように答えていました。
私の父は真面目だけれども出世とは一切無縁の万年平社員。
家の生活は楽ではなく、母が内職をしてなんとか家計を支えていました。引用:gakuseishinbun.jp
このような生い立ちから、社会を変えたいと思うようになったそうです。
そんな家庭に育った私は「真面目に働く人が報われる社会にしたい」と思うようになり、その思いを官僚になって実現しようと考え、当時、官僚になるには東大に入るのが最も近道だったので、東大をめざして必死に勉強し、なんとか合格することができました。
引用:gakuseishinbun.jp
古川元久さんは幼い頃の誓い通り、愛知県立旭丘高校を卒業後、東京大学法学部に進学、1988年に卒業しています。
また、東大在学中に司法試験にも合格しています。
それでも、法曹ではなく官僚の道に進むことを決心し、大蔵省(現・財務省)に入省します。
政治家を目指したきっかけは、アメリカ留学
当時の日本は、バブルの崩壊直後でした。
沈みゆく日本に戻るより、アメリカで安定した生活を送ろうと思っていたそうです。
そんな時、霞が関ビルを設計した建築家と話をする機会があり、このように言われます。
その方は戦後のアメリカに留学し、豊かで高度な技術を持った国に感動。
その技術を学び日本のために貢献したいと思ったそうです。
その言葉を聞き、我に返った古川元久さん。
『これから日本は悪くなる』なんて他人事のように思うのではなく、悪くならないよう自分たちが頑張らなければならない!ということに気づきました。
引用:gakuseishinbun.jp
これからの日本のために、官僚のように敷かれたレールの上を通るのではなく、新たなレールを敷く政治家になろうと決心します。
古川元久は衆議院議員で10回の当選回数を誇る
1994年に大蔵省を退官し、政治家を目指すため、帰国した古川元久さん。
1996 年、第41 回総選挙で衆議院議員に初当選。
以後、衆議院愛知選挙区では敵なしの9期連続で当選。
現在は国民民主党に所属し、衆議院議員として10回目の任期中です。
- 内閣官房副長官
- 国家戦略担当大臣
- 経済財政政策担当大臣
- 科学技術政策担当大臣
- 宇宙政策担当大臣
- 内閣委員長、
- 沖縄・北方問題特別委員会委員長
【現在】
- 国土交通委員会委員
- 災害対策特別委員会委員
- 国民民主党国会対策委員長
国家の未来を見据えた政策立案に貢献。
日本の政治における重要な決定に関与し、国民の生活向上に寄与するための施策を推進してきました。
古川元彦の国民民主党での役割は?
古川元久さんは、国民民主党の国会対策委員長として、党内での重要な役割を果たしています。
この役職は、国会における党の戦略を策定し、議員間の調整を行う責任を担っています。
古川さんは10期連続で当選を果たし、党内での信頼を築き、党の政策形成においても中心的な存在となっています。
また、国民民主党の政策立案や党運営においても積極的に関与。
古川元久さんのリーダーシップの下、党は新たな政策を打ち出し、国民の期待に応える努力を続けていくことでしょう。